依存

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On 7月 23, 2016, Posted by , With 依存 はコメントを受け付けていません

ゲイリー:それで歴史的なJはどんな人だった?

パーサ:彼は決して木を罵って切り倒したりはしなかったし、寺院で怒ってテーブルをひっくり返しもしなかった。でも何度か死んだ人を甦らせたことはあるわ。それから彼の身体は十字架の上で死んだけれど、人が想像するように苦しみはしなかった。彼の姿は言葉は語り尽くせない。彼のそばにいるのは比べ物のない、とても不思議な体験だった。安らかさ、決して揺らがない愛の大きさ──人によっては耐えられなくなって目をそむけてしまったくらい。彼はとても穏やかで確信に満ちていたから、どうしたらあんなふうになれるのかと思ったわね。彼とともに長い時間を過ごした人や、わたしのように個人的に話をした人は、彼の神に対するまったき信頼に感動したわ。
 ところが皮肉なのは──これが人には理解できないのだけれど──彼が自分は全面的に神に依存していると思っていたことよ。でもこの依存は世間的な依存とは違って、弱点ではありませんでした。むしろ結果として信じられないほどの心理的な強さが生まれたの。どんなに強い人でも震え上がるようなことでも、彼はまったく平気だった。そんなことは彼にとって何の意味もなかったからよ。彼に恐れはなかった。この世の出来事に対する彼の姿勢は、あなたがたが夢を見ているときと同じ、ただし自分が夢を見ていると完璧に知っていて見ている夢ね。これは夢だとわかっているから、夢のなかの出来事に傷つけられることはいっさいない。だってどれも真実じゃないんだもの。自分は象徴的なイメージを見ているんだ、人間たちも含めてほんとうには存在しないんだとわかっているの。
Jはわたしと二人きりのとき、世界はただの無意味な夢だってよく言っていた。でもたいていの人たちはそんな考え方を受け入れられなかった。そうではないという体験があまりに強烈だったからね。それで彼は、世界は幻想であると知るだけでは充分ではない、と強調したのよ。グノーシスや初期キリスト教との一部も世界は夢に過ぎないと言ったし、ヒンズー教ではマーヤー(幻)、仏教ではアニッカ(無常)と言うわね。どれもだいたい同じことを言っている。でもその夢の目的と見ているイメージの再解釈の仕方がわからずに、世界は幻想だと漠然と教えるだけではあんまり価値はないわ。でもJはいつか聖霊が人々にすべてを教えるときがくる、そして誰でも神だけが現実であるとわかる、とも言ったの(わたしたちもあなたにJの新しい教えを伝えることで、それに貢献したいと思っているわけ)。Jはよく最後に「神はある(God is)」と言って立ち去っていった。

出典:神の使者 P76~77

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