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On 7月 11, 2016, Posted by , With 夢 はコメントを受け付けていません

パーサ:夢の話をしましょうか。あなたに四歳の娘がいて、夜ベッドで夢を見ているとしましょう。子ども部屋をのぞいたあなたには、娘さんが夢を見ているとわかる。動いたり寝返りを打ったりしていて、娘さんは落ち着かない。彼女にとっては夢が現実になっている。だから夢の中のことに現実のように反応する。さて、あなたには夢は見えません。なぜか?だって夢は現実ではないし、四歳の娘さんはベットから出てもいない。娘さんは安全にうちにいるのだけれど、でも当人にはそれがわからない。彼女はそれに気づいていなくて、夢が現実になっている。

 あなたは娘さんが怖がっているようだから起こしてよろうと思う。で、どうしますか?いきなり身体を揺すって起こす?いいえ、そんなことをしたら娘さんはもっと怯えてしまうわ。だからそっと静かに起こそうとするでしょう。こんなふうに静かに耳元で囁くんじゃないかな。「大丈夫、夢だよ。怖がらなくていいんだよ。おまえが見ているのはほんとうじゃない。おまえが感じている問題や不安や恐れや苦痛は、ほんとうはみんな馬鹿ばかしいんだ。だってそんなものを感じる必要はないんだからね。どれも現実ではない夢のなかで起こっている。最初にそんな夢を生み出した馬鹿げた考えが引き起こしているんだよ。ほら、この声が聞こえたら、もうおまえは目が覚めかけている」

 夢のなかでは真実はそんなふうに聞こえるのよ。思い出してごらんなさい。「真実は夢のなかにはないけれど、でも夢のなかで聞くことはできる」四歳の娘さんはあなたの声を聞いてほっとするわ。そしてゆっくりと穏やかに目覚めていく。夢はもっと楽しくなる。最後にはっきりと目が覚めたとき、自分はずっとベッドにいたと気づくでしょう。ずっとうちにいたんだって。わが家は変わらずにここにあるのに、でも娘さんは気づいていなかった。目が覚めれば、自分は安全にうちにいるという事実が彼女の現実になる。あなたは娘さんがずっとうちにいたのを知っている。娘さんの夢を見て、それに反応する必要なんかぜんぜんなかった。では娘さんが目覚めたとき、夢はどこへ行ってしまうのでしょうね?

ゲイリー:どこにも行かないな。ただ消えるだけ。だってほんとうはずっと存在していなかったんだから。現実のように見えたし感じられたかもしれないが、しかし現実じゃなかった。夜見る夢のなかのイメージは投影だ。心のなかの一部で見ているけれど、それは心の別の部分から投影されていて、そのもとの部分は隠されている。

パーサ:たいへんけっこう。あなたが言ったようにトリック、仕掛けなの。そこがおもしろいところ。四歳の娘さんは夢から覚める、ところが覚めた先も別の夢に過ぎない。今朝あなたがベットで目覚めたのも、やっぱりまた別のかたちの夢のなか。これはレベルの働きであって、純粋な霊という現実のなかには存在しません。それどころか、寝ていて見る夢よりもこの夢のほうがずっと実感があるのは、これが現実だと思い込まさるためなの。確かに実感はあるけど、でもあなたにとっては夢が現実で、ほんとうの自分の居場所に気づいていない。『奇跡のコース』にはこう書いてあるわね。

───あなたの時間はすべて夢のなかで過ぎて行く。眠っていて見る夢と起きていて見る夢は形が違うが、それだけである。内容は同じだ。

 あなたが夜ベットで四歳の娘に囁くのと同じことを、聖霊はこの夢のなかであなたに囁いています。こんなふうにね。「大丈夫、夢だよ。怖がらなくていいんだよ。あなたが見ているのは真実ではない。あなたが感じている問題や不安や恐れや苦痛は、ほんとうはみんな馬鹿ばかしいんだ。だってそんなものを感じる必要はないんだからね。それに、どれも現実ではない夢のなかで起こっている。最初にそんな夢を生み出した馬鹿げた考えが引き起こしているんだよ。ほら、この声が聞こえたら、もうあなたは目が覚めかけている。真実は夢のなかでも聞こえるのだから」

 真実は夢のなかにはないが、しかし夢のなかでも聞こえる。そしてあなたが真実を知り始めたなら、それはさまざまなかたちで行われる聖霊からあなたへのコミュニケーションで、あなたはほっと安堵し始める。そして赦しという繭作りのプロセスを通じてゆっくりと穏やかに目覚めていく。毛虫が繭のプロセスを通じてもっと高くもっと制約の少ない生命のかたちに向けて準備を整える。その結果、あなたの夢はもっと幸せになる。でもその幸せは夢のなかで起こっていると思えることのせいではない。それは夢のなかで何が起こっているように見えるかとは関係なく存在する内なる平和です。そしてついに目覚めたとき、あなたは自分がほんとうは一度もわが家を離れたかったこと、神と完璧に一つであることを知るでしょう。あなたはいつもわが家にいた。わが家はいまもここにあって、でもあなたは気づかないでいる。
 トマスの福音書にあるわね。「父の王国は地上に広がっているが、人々はそれを見ない」真実に気づけば、あなたは王国の現実に目覚め、自分は常に安全にわが家にいることを知るでしょう。

ゲイリー:でもそれが真実なら、神はぼくがここにいることも知らない、ってことになるよ!

アーテン:きみの考えはまったく的外れだ。肝心なのはきみはここにいないということで、神はきみがほんとうにいる場所を知っている。そして神は夢のなかに身を投じて真実でない夢を真実にするよりも、もっといい考えをお持ちだ。彼はきみが目覚めて「彼」とともにあることを望んでいる。きみはいつかは天国に目覚めるが、神はきみがいつもそこにいたことをご存知だ。神にはきみの夢を見たりその夢に反応したりする必要はないんだよ。

『奇跡のコース』にあるね。

───あなたは神のわが家にいて、流浪の夢を見ているが、しかし現実に目覚める力を完璧に持っている。
 ところでゲイリー、きみが目覚めたとき、時空の夢はどこへ行くと思う?

ゲイリー:どこにも行かない。消えるだけだ。なぜならどんな夢でもそうだが、それもまた消え失せる蜃気楼、解ける呪文だから。そして、現実がぼくの現実になる。

アーテン:そう、そして時空間の夢から覚めればもう時間も空間もなく、したがってきみはみんなが目覚めるのを百万年も待つこともない。目覚めるべき誰かなんていないのだから。あるのはきみだけ、一つのエゴだけで、それが多数に見えているに過ぎない。そしてきみが外部にいると「考えて」いる者たちは、すでに天国できみとともにいる。身体としてではなく真の姿、霊として。その「一つであること」からこぼれる者は誰もいないし、「全体」には欠けるものは何もない。だからきみの気づきのなかには動物も含めてきみがかつて愛し大事に思った生きとし生ける者すべてがいる。分離してばらばらになった者としてではなく、決して分離し得ない者として再びそこにある。完全のなかでは何一つ欠けることはあり得ない。すべてが完璧に一つであり恒常だが、これは時空の宇宙にはありえない属性だ。しかし、たとえ身体に住まうものであるように見えていても、きみはその属性を経験できる。

出典:不死というあなたの現実 P39~43

 ゲイリー:この世界で起こっていることはどれほど現実的に見えて感じられても現実じゃない。夜寝ていて見る夢のなかのイメージは投影だ。心の一部でそのイメージを見ているけれど、実は心の別の部分がそれを投影しているんだが、そのもとの部分は隠れている。
 同じく白昼にこの目で見ているものもぼく自身の無意識の心からの投影で、ぼくが密かに自分自身について真実だと信じていることだ。フロイトが言ったとおり、夢の中に出てくる人物は自分自身で、人生で出会う人たちもみな自分自身のシンボルなんだね。Jはそれを知っていたし、すごく頭が良かったから、すべての人は他者を批判し非難することによって、自分自身の偽りのエゴのアイデンティティを保っていると気づいた。だが言葉の真の意味での赦しを実践すれば、その偽りのエゴのアイデンティティを解体し、霊に戻れるんだということも。

アーテン:そのとおり。フロイトが実際にはエゴという言葉を使っていなかったのも興味深いね。彼が使ったのはイッヒ、個人的なアイデンティティを指す「わたし」という言葉だった。そのことを大きな意味を持つ仏教用語「エゴ」と結びつけると、自分には「ソース」と分かれた別のアイデンティティがあると間違って信じている存在が浮かび上がってくるじゃないか。

パーサ:それにエゴの解体を話題にしてくれたのは良かったわね。だってこの世界は現実じゃないと人々に言うだけでは充分じゃないもの。それだけでは、人々はどこにも行きつけません。世界は幻想であるという知識は確かに全体像に必要なパズルのピースだけれど、エゴを解体できるのは真の赦しだけです。それについてはあとでもっと詳しく話し合いますけどね。それができないとほとんど進歩はないわ。すべてはあなたがどう考えるかにかかっている。あなたが見ている誰かを身体と考えるなら、あなたも身体なの。その人を霊と考えるなら、あなたも霊です。あなた自身の無意識の心がそう解釈するのだから、そこから逃れることはできない。他者をどう考えるかで、自分をどう感じるかが決まるんです。

出典:不死というあなたの現実 P44~46

ゲイリー:それで歴史的なJはどんな人だった?

パーサ:彼は決して木を罵って切り倒したりはしなかったし、寺院で怒ってテーブルをひっくり返しもしなかった。でも何度か死んだ人を甦らせたことはあるわ。それから彼の身体は十字架の上で死んだけれど、人が想像するように苦しみはしなかった。彼の姿は言葉は語り尽くせない。彼のそばにいるのは比べ物のない、とても不思議な体験だった。安らかさ、決して揺らがない愛の大きさ──人によっては耐えられなくなって目をそむけてしまったくらい。彼はとても穏やかで確信に満ちていたから、どうしたらあんなふうになれるのかと思ったわね。彼とともに長い時間を過ごした人や、わたしのように個人的に話をした人は、彼の神に対するまったき信頼に感動したわ。
 ところが皮肉なのは──これが人には理解できないのだけれど──彼が自分は全面的に神に依存していると思っていたことよ。でもこの依存は世間的な依存とは違って、弱点ではありませんでした。むしろ結果として信じられないほどの心理的な強さが生まれたの。どんなに強い人でも震え上がるようなことでも、彼はまったく平気だった。そんなことは彼にとって何の意味もなかったからよ。彼に恐れはなかった。この世の出来事に対する彼の姿勢は、あなたがたが夢を見ているときと同じ、ただし自分が夢を見ていると完璧に知っていて見ている夢ね。これは夢だとわかっているから、夢のなかの出来事に傷つけられることはいっさいない。だってどれも真実じゃないんだもの。自分は象徴的なイメージを見ているんだ、人間たちも含めてほんとうには存在しないんだとわかっているの。
Jはわたしと二人きりのとき、世界はただの無意味な夢だってよく言っていた。でもたいていの人たちはそんな考え方を受け入れられなかった。そうではないという体験があまりに強烈だったからね。それで彼は、世界は幻想であると知るだけでは充分ではない、と強調したのよ。グノーシスや初期キリスト教との一部も世界は夢に過ぎないと言ったし、ヒンズー教ではマーヤー(幻)、仏教ではアニッカ(無常)と言うわね。どれもだいたい同じことを言っている。でもその夢の目的と見ているイメージの再解釈の仕方がわからずに、世界は幻想だと漠然と教えるだけではあんまり価値はないわ。でもJはいつか聖霊が人々にすべてを教えるときがくる、そして誰でも神だけが現実であるとわかる、とも言ったの(わたしたちもあなたにJの新しい教えを伝えることで、それに貢献したいと思っているわけ)。Jはよく最後に「神はある(God is)」と言って立ち去っていった。

出典:神の使者 P76~77

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