放蕩息子の物語

Home  >>  放蕩息子の物語

放蕩息子の物語

On 7月 21, 2016, Posted by , With 放蕩息子の物語 はコメントを受け付けていません

アーテン:ルカによる福音書の一五章十一節を開けてごらん。

ゲイリー:
───ある人に息子がふたりあった。弟が父に言った。「おとうさん、わたしの財産の分け前をください」それで父は財産を二人に分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、ある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、ブタの世話をさせた。彼はブタの食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、誰一人彼に与えようとはしなかった。しかし、われに返ったとき、彼はこう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのにわたしはここで飢え死にしそうだ! 立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん、わたしは天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もうわたしはあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところがまだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした。息子は言った。「おとうさん、わたしは天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もうわたしはあなたの子と呼ばれる資格はありません」 ところが父親はしもべたちに言った。「急いでいちばん良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせなさい。肥えたコウシを引いてきて、ほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから」そして彼らは祝宴を始めた。

アーテン:
 まず理解しなければいけないのは、この息子が家から追い出されたのではない、ということだ。彼は無邪気なまでに愚かで家を出て行って成功できると思った。これがエデンの園の神話についてのJの回答だ。神はきみたちを天国から追放したのではないし、神から離れるというきみたちの経験については、どんな意味でも神には責任はなく、神がそうさせたのでも、仕向けたのでもない。
 次に、息子が自分の限られた資源を使い果たして、天国ではあり得ない欠乏という状況を体験し始めたことに気づくだろう。自分の「(ソース)」から切り離されたと思ったとき、彼はないものへの欲望を初めて経験した。彼が自分の「(ソース)」から切り離されたと思ったとき、と言ったのは、それが一見起こったように見えるが実際には起こっていないことだからだ。これはわかりにくいだろうけれど、そのうちにもっと詳しく話してあげるよ。
 乏しさを体験した息子は、ある人物のもとに身を寄せて欠乏を満たそうとした。これは問題の解決策を自分以外のところに求める試みを象徴している。この試みには必ず何らかのかたちの特殊な関係が伴う。解決策を外に求めようという果てしなくむなしい試みは、放蕩息子がわれに返ったのと同じことがきみたちに起こるまで続く。息子はそのとき、自分の問題の有意義な答えはただ一つ、父の家に戻ることだと気づいた。それは彼にとって、世界のどんなことより重要だったんだ。
 さあ、これからが物語のいちばん大切なところだ。息子が自分の姿だと信じたものと、父が知っていた真実とは対照的だろう。自分は罪を犯した、父の子と呼ばれる資格はないと息子は思っている。ところが愛情深い父は息子の言葉など耳に入れない。父は怒ってもいなければ、復讐しようとも思わず、息子を罰しようなどこれっぽっちも考えていない。これこそ神のほんとうの姿だ!神は人間のようには考えない。だって人間ではないのだからね。この物語はたとえ話だ。息子を迎え入れて、神の愛はほとばしる。神は息子が永遠に無辜(むこ)であることを知っている。なぜなら自分の息子、神の息子だから。その事実は起こったように見える出来事によってもまったく変わらない。放蕩息子は生命に復帰した。彼はもう乏しさや破壊や死の夢のなかをさまよってはいない。これこそ祝宴のときだ。

出典:神の使者 P27、P29~31

Comments are closed.