まとめ

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On 7月 10, 2016, Posted by , With まとめ はコメントを受け付けていません

ゲイリー:第一に、ラビとしてまた神秘主義者として、Jは古代ユダヤ教の神秘主義の教えをよく理解していた。その教えのなかに、天国とは神に近いことで地獄とは神から遠いことだ、という考え方があった。しかしJは徹底していて、いい加減なところでは妥協しなかった。彼にとって天国とは神に近いだけでなく、神と「1つ」であることだった。それも「完璧に」神と1つになることだ。そして地獄とは神から遠いだけではない。何によらず神から離れることはすべて地獄だった。そこで選択肢ははっきりと二つに絞られる。そのうちの1つだけが現実だ。なぜなら完璧な「1つであること」に並ぶものなんかあり得ないから。そんなものがあるなら、それは完璧ではないものね。

 Jにとって神とは不変で完璧で永遠だ。そして神とスピリットは同義語だ。「彼」が創ったものはすべて「彼」と何の違いもないから。もし違いがあれば完璧ではなくなる。それに神が完璧でないものをつくるとしたら、神自身が完璧でないことになるが、そんなことはあり得ない。そうだろう?そしてスピリットは進化しない。そうでないと完璧ではない。

 もちろん神は「彼」でも「彼女」でもない。「彼」という言葉を使ったのは、「コース」と同じように聖書の言葉の使い方に倣っただけ。神を「それ」と呼んでもいいのだけど、そう呼んだからと言って誰かが拍手してくれるわけでもないしね。

 ここで、ぼくらの友人Jについてすぐに気づくことが二つある。第一は妥協のない人だったということ。二番目は、物事がどれほど複雑そうに見えても選択肢は常に二つしかないし、本物はそのうちの一つだけだ、ということだ。もう一つの選択肢が幻想だってことは、ヒンズー教も仏教もJよりはるか昔から教えていたが、Jはその考え方を発展させ、葛藤する不完全な神ではなくて一点の曇りもない完璧な愛である神にまで高めた。

 次にJは中東の生まれだったことを思い出さなくてはいけない。彼には西洋よりもむしろ東洋的な傾向があっただろう。だから仏教の教えもよく知っていたに違いない。仏教におけるエゴという考え方を知っていたはずだ。そしてヒンズー教でいう多次元世界、仏教でいう無常のなかでエゴがたくさんの現れ方をしても、じつはたった一つのエゴがあるだけだということを理解し、体験していただろう。つまり、ここに自分がいる、これが自分だと考えているけれど、じつは存在するのは唯一者だけだ。ほかには誰もいない。ここにも、ここではないどこかにも、誰もいはしない。そう見えるだけだなんだ。そう見えるのはトリック、仕掛けだ。心の中の意識の部分は外部を見て、違う身体、違う形というぐあいにあらゆるところに分離を見るが、しかしそれは幻想だ。そして心の中の無意識の部分は氷山の大部分が水面下にあるようにほとんどが隠されているけれど、本当はぼくたちというのはたった一つしかないことを知っている。

 時間も空間も相違も、すべてはそう見えるだけで真実ではない。すべてがつながっている理由は、神が唯一であるのと同じように幻想がたった一つあるだけだから。ただし神はその幻想とは何の関係もない。あると思うのは人間の側の間違った想定だ。人々は自分たちがこうだと信じるイメージを象って神を作り上げた。でも神は神のイメージを象ってぼくたちを作り上げたんだ。完璧で、無辜で、唯一の存在としてね。幻想の中に存在する一体性は、エゴが神を真似しようとして作ったまがいものだ。

 現在では量子物理学者も時空が幻想であること、過去と現在と未来はすべて同時に起こっていることを確認している。ぼくたちはじつは非局在的な存在で、それが局所的な経験をしている。あんたがたがそっちにいて、ぼくはこっちにいるように見えるかもしれないけれど、それは偽りだ。空間も分離というただの考え方で、時間も同じ。ぼくたちは時間と空間を分割し、違う時間帯があって違う場所があるように見せかけているが、たとえ見かけは違っているようでもじつはすべて作り上げられたもので、何もかも同一だ。だって分離という考え方のうえに築かれた幻想なんだから。物理学ではまだそこまではわかっていないけれどね。物理学者が知っているのは、物事の本当のあり方をよくよく見ようとすると、真のあり方と比べてぼくたちの経験は幻想だということがわかる、ってことだ! 彼らにはまだ全体像ではなくて一部しか見えていない。科学と霊性スピリチュアリティはまだ完全に出会ってはいないんだ。ただし、近づきつつあるけれど。

 たとえばぼくが二百億光年かなたの星を見ると、その瞬間に分子以下のレベルで対象に変化を引き起こすことを物理学者は知っている。どうしてそんなことが可能か? じつは星は二百億光年かなたにあるのではないからだ。そうじゃなくてぼくの心のなかにある。もっと正確にいうならぼくの心の投影だ。ぼくが作り出している。たいていの人は星があってそれを自分が見ると思うけれど、そうじゃなくて星は自分の中から投影されている。しかもぼくが見たり触れたりするまでは、それは物質(matter)ですらない。だから意味さえもない(not even matter)。それはエネルギーであり、考え出されたもので、だからエネルギーは破壊され得ない。物質は違う形をとったエネルギーで、エネルギーに戻り、またリサイクルする。

パーサ:そして二千年前にJはどうやって仏教やユダヤ教の神秘主義の全ての知識を活用し、現代物理学の成果と同じ結論に達したのかしら?

ゲイリー:心理学も含め、これほど進んだ知識が得られているいまでさえ人々がまだ理解していないことが彼にはわかったんだな。それはこういうことだ。ここにいるわれわれが本当は一つなら、そして心の無意識の部分はそれを知っているなら、人を批判したり非難しているぼくらはいったい何をしているのか? 自分の無意識の心に自分たちは批判され非難されるべき存在だというメッセージを送っているだけではないのか? 他者について考えることは全部、本当は自分自身について自分にメッセージを送っているようなものだ。だからJは、ここにいると思っているぼくらが本当は一つであるなら、そして無意識の心がそれを知っているなら、自分は一生涯すべての人にその真実の姿を見よう、つまり分離というインチキな考え方から生じたに過ぎない個々別々の身体ではなく完璧な霊を見よう、と決めたんだ。彼はすべての人を無辜の純なキリストとして見ようとした。人々を本当の姿で考えた。傷つき得ない不死の存在、それどころかこの世界には触れることもできない存在として。

 このように悟りの鍵はごく少数の人しか知らない秘密にあったのだが、その秘密をJはよく知っていた。自分が自分についてどう感じるか、どういう自分を経験するかは、他者にどう見られるどう考えられるかで決まるのではない。自分についてどう感じ、どういう自分を経験するかは、自分が「他者を」どう見てどう考えるかで決まる。つまるところ、それが自分のアイデンティティを決定する。自分を身体と同一視アイデンティファイするか完璧な霊と同一視アイデンティファイするか、分断されていると見るか全体として見るかを決めるのは、自分が他者をどう見るかだ。これが理解できたら、他者についての考え方にはものすごく注意深くしないとまずいだろうな!

出典:不死というあなたの現実 P33~36

ゲイリー:Jは赦しを実践するたびに、じつは自分自身と再び一つになったんだ。

アーテン:そこからもっと大きな意味を汲み取れたかい?

ゲイリー:そのつもりだ。彼は分離という経験から全体(wholeness)という経験へと進んでいた。そして聖なる(holy)という言葉は、じつは全体(whole)という言葉から来ている。トマスの福音書でも言っているね。「私は全体であるものから来た。私は「父」から与えられている。ゆえに言う。全体であれば光に満たされるが、バラバラであれば闇に満たされるであろう」だから、分離と全体の両方であることはありえない。少しだけ全体だなんてことはないんだから。なにもかもが分割されないでいるか、さもなければ分割されるか、どちらかでしかない。物事がどれほど複雑に入り組んでいるように見えても、ほんとうは二つの選択肢しかない。一方は一つにして完璧なる全体、あるいは聖なるもの。だから古い祈りの言葉も「主よ、われらの唯一の神よ」という。そしてもう一つの選択肢は、完璧なる一なるもの以外の、ありとあらゆる分割されたものだ。それしかあり得ない。だからJは完璧にこの世界を赦した。彼の愛と赦しは全的で、すべてを包んだ。この世界を部分的に赦すなら自分の赦しも部分的で、つまり分割されたままだろう、と彼は知っていた。だがこの世界を完璧に赦せば自分も完璧に赦される。

 このようにJと精霊の偉大なる教えとは赦すこと、それも古いやり方、ニュートン的な主体と客体がある赦しではなく、量子的な意味での赦しなんだ。古いやり方の赦しはこんなふうになる。「よろしい、あなたを赦してあげよう。なぜなら私はあなたより善で、あなたは実際に行動し、本当は有罪なのだが、それでも私はあなたを大目に見て堪忍してやるつもりだ。ただし、それでもあなたは地獄に行くだろうが」これはぼくたちが自分自身について抱いて、無意識の心のなかでグルグルと回転させている分離という奇妙な考え方だ。本当の赦しではない。だけどJは誰の心にも神から分かれたと思うことから生じる根源的な深い無意識の罪悪感があるのを知っていた。そして違う種類の赦しもあり、それが罪悪感を解消する一番の近道で、エゴを解体することと同じだってことも。

アーテン:結局のところ、その無意識の罪悪感が心にある限り、生と死の循環を打ち壊して輪廻を断つことはできないのだから。

出典:不死というあなたの現実 P38~39

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