教えるということ

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教えるということ

On 10月 27, 2016, Posted by , With 教えるということ はコメントを受け付けていません

 1. 教えることと学ぶことの役割は、この世界の思考では、実際に逆になっている。₂この逆転は特徴的なものである。₃あたかも、教える者と学ぶ者が分離しており、教える者が、自分自身にではなく学ぶ者に、何かを与えているかに見える。₄さらには、教えるという行為は、人が自分の時間のうち比較的わずかな間だけ携わる特別な活動であると見なされている。₅一方、このコースは、教えるとはすなわち学ぶことであるから、教える者と学ぶ者は同じであると強調する。₆また、教えるということは不断のプロセスであり、一日中あらゆる瞬間に行われており、睡眠中の想念の中でも続いているということも、同じく強調されている。
 2. 教えるとは、手本を示すことである。₂存在するのは二つの思考体系だけであり、あなたはいつでも、自分がそのどちらか一方を真実だと信じているということを、手本として示している。₃あなたが示す手本から他の者が学び、同じくあなたが学ぶことになる。₄問題は、あなたが教えるかどうかではない。それについては選択の余地がない。₅このコースの目的は、あなたが何を学びたいかに基づいて何を教えたいかを選択できるように、そのための手段を提供することにあるとも言える。₆あなたは他の誰かに与えるということはできず、自分自身に与えることができるだけである。そしてこのことを、あなたは教えることを通して学ぶのである。₇教えるとは、あなたが何を信じているかをあかしするようにと、証人たちに呼びかけることに他ならない。₈それは回心の方法である。₉これは言葉だけによって為されるものではない。₁₀どんな状況も必ず、自分とは何であるか、そして他者とはあなたにとって何であるかを、あなたが他者に教える機会となる。₁₁それ以上のものではない。しかしそれ以下でもない。
 3. したがって、あなたが設定するカリキュラムは、自分をいかなるものと考えているか、および、他者との関わりを自分にとっていかなるものと考えているか、および、他者との関わりを自分にとっていかなるものと信じているか、ということのみにより決定される。₂正式に教える状況においては、こうした問いは、自分が教えていると思っている事柄とはまったく無関係かもしれない。₃しかし、いかなる状況に含まれる内容であれ、あなたが真に教えるもののため、すなわち真に学ぶ者のために使われないということはあり得ない。₄これには、あなたが教える事柄がどのような言葉で述べられるかはまったく問題にならない。₅それが教えと一致する場合もあれば、一致しない場合もある。₆あなたが語ることの根底にある教えが、あなた自身に教えるのである。₇教えるということは、自分自身について自分が信じていることを強化するだけである。₈その根本的な目的は、自己不信を減ずることにある。₉これは、あなたが守ろうとしている自己が実存するという意味ではない。₁₀しかし、実存すると自分で思っている自己をあなたは教えるということは、確かに意味している。
 4. これは避けられないことである。₂このことから逃れる道はない。₃それ以外のことがあり得るだろうか。₄この世界のカリキュラムに従っている者は誰でも、自分が自分の本性とは違ったものであると、ひたすら自分自身に確信させるためにのみ教えており、そして、ここに居る者は誰でも、自分で自分の心を変えるまでは必ずそのカリキュラムに従うものである。₅そうすることの中に、世界の目的がある。₆それならば、それ以外の何が、世界のカリキュラムであり得るだろう。₇絶望と死の他には何も教えず、希望もなく、閉ざされたこの学びの状況に、は教師たちを送り込む。₈そして彼らが喜びと希望というのレッスンを教えている間に、彼ら自身の学びがついに完了する。

出典:奇跡講座 マニュアル編 教師のためのマニュアル 序文

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