日々の実践
Revision for “日々の実践” created on 2016年7月25日 17:58:48
タイトル | 日々の実践 |
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コンテンツ | <blockquote>
<ruby><rb>霊的</rb><rp>(</rp><rt>スピリチュアリティ</rt><rp>)</rp></ruby>な進化を早めるうえでほんとうに重要なのは実践の段階ですからね。
真面目に<ruby><rb>霊性</rb><rp>(</rp><rt>スピリチュアリティ</rt><rp>)</rp></ruby>を学んだ学習者や教師は、ある時点で、習ったすべてのことを日々であるすべての人、すべての状況、すべての出来事に応用し実践しなくてはならない。それはどんなことでも同じです。そこにはふつう謎なんかありません。人生で起こることはみんな聖霊があなたに教えを実践させようとするレッスンだし、聖霊の偉大なる救済の手段は赦しなんです。
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訓練の行き届いた応用と実践を通じてのみ、人は「体験」という輝かしい段階に入ることができる。その体験こそあなたがたを幸せにしてくれる唯一のものであることは、わたしたちが保証してあげるわ、兄弟よ。言葉では絶対にダメ出し、知的な概念でも、神学でも、哲学的洞察でもダメ───そんなものは忘れなさい。『奇跡のコース』はあなたも知っているとおり、Jが神の言葉を語ったものだけれど、言葉はシンボルのシンボルに過ぎない。二重に真実からかけ離れている、と言っています。それを考えれば、シンボルのシンボルがあなたを幸せにするはずがないことはわかるでしょ?あたりまえだわ。あなたを幸せにするのは唯一、あなたがたの真実を体験すること。あなたがたをほんとうに満足させるのは真実のシンボルではなく、真実の体験なのよ。
同じく「コース」でJは人々が抱く疑問について語り、こんな驚くべきことを言っています。
───<b>答えはない。体験があるだけだ。それだけを求めなさい。神学によって歩を遅らせてはいけない。</b>
その体験は、聖霊によって心を訓練し、聖霊が見て考えるように他者を見て考えられるようになれば実現します。ただしその体験の成就を早めるには、仏教や『奇跡のコース』のようなきちんとしたシステムが必要なの。ほうっておいたら心は癒されません。これも「コース」のなかでJが言っているとおりよ。
───<b>訓練されていない心は、何事も成すことはできない</b>
<cite>出典:不死というあなたの現実 P26</cite>
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心にどれほど<ruby><rb>霊的</rb><rp>(</rp><rt>スピリチュアリティ</rt><rp>)</rp></ruby>な情報を詰め込むかで、どう悟るかが決まるのではい。それはほんとうよ。でも同時に『奇跡のコース』のような形而上学的な教えは、知っていることを実践しようという決意を支える土台を与えてくれます。それは実践の中でもいちばん重要な部分よ。真理を理解したうえで、どんな事態になってもその心理を思い出す、それが難しいの。困難な状況でも真理を思い出す習慣がついたら、真理の実践は第二の天性になるわ。そうなれば、あなたはわたしたちが話している体験に向かって何光年も進歩できる。「コース」が言っているように、「『コース』が向かっているのは、この体験」ですからね。
<cite>出典:不死というあなたの現実 P30</cite>
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パーサ:意義のある進歩をするには何年もの実践が必要なのに、多くの人たちは赦しという方法を活用せずにいきなり目的地にジャンプしたがる。学習者を経験せずに<ruby><rb>師</rb><rp>(</rp><rt>マスター</rt><rp>)</rp></ruby>になりたがるんです。
<cite>出典:不死というあなたの現実 P48</cite>
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2. 世界に下される最後の審判に咎めは含まれていない。₂それは、世界は完全に赦されたもの、罪のないまったく無目的なものと見るからである。₃もとより原因はなく、今や<strong>キリスト</strong>の視覚の中で機能もなくなった世界は、無に帰するのみである。₄それはそこで生まれ、そこで終わる。₅そしてこの世界をもたらした夢の中のすべての影法師も、ともに去っていく。₆肉体は今では無用となり、ただ消え去るのみである。<b>神の子</b>は無限だからである。
<p>出典:<cite>奇跡講座 ワークブック編 第2部 10. 最後の審判とは</cite></p>
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パーサ:わたしがいま(トマスの福音書)四十七項とされているところに記したように彼はこう言っていたの。
──<b>人は二頭の馬に乗ることもできず、お辞儀を二つに分けることもできない。また召使は二人の主人に仕えることはできない。そんなことをすれば、一方の主人を重んじ、一方の主人をないがしろにすることになるだろう。</b>
ゲイリー:それじゃ、身体と心と霊に同じくらいの価値を置くから自由になれず、何度も何度も身体として引き戻されるって言うわけ?
パーサ:そう、でも身体を無視しなさいというんじゃないのよ。別の見方をしなさい、ってことなの。
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これは(トマスの福音書)六十一項から抜き出した言葉なんだけど・・・・。
──<b>わたしは全体であるものから来た。わたしは「父」から与えられている。ゆえに言う。全体であれば光で満たされるが、ばらばらであれば闇に満たされるであろう。</b>
さっきの話に戻ると、言い換えれば、あなたがたは両方ではありえないってこと。少しだけ全体であるなんてことは、少しだけ妊娠しているのと同じで不可能なのよ。忠誠の対象は分割できない。ただ神にだけ心を注ぐべきなの。一朝一夕にできることじゃないし練習がいるけどね。大切なことは何でも一晩では身につきません。あなただってギターが上手くなるのにずいぶんかかったでしょう?
ゲイリー:まいいかなってくらいまでに数年。十年たっても、もっとうまくなりたいって思ったよ。
パーサ:そう簡単にJのレベルにまで達するはずはないと思わない?
<p>出典:<cite>神の使者 P112~114</cite></p>
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