神のもとへ戻る4つの学びの段階

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神のもとへ戻る4つの学びの段階

On 7月 22, 2016, Posted by , With 神のもとへ戻る4つの学びの段階 はコメントを受け付けていません
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アーテン:神のもとに戻るための学びには、大きく分けて四種類の姿勢があるからだ。誰でもこの四つを通るし、誰でも学習の過程で自分でも気づかずにその4つを行ったり来たりする。各階段の考え方と結果としての体験はそれぞれ違うし、どの段階の姿勢を取っているかで、同じ聖書の言葉を違って解釈することになる。
 二元主義、これは宇宙のほとんどすべての状態だ。心は主体と客体の領域を信じている。神を信じつつ、二つの世界があってどちらも真実だと思っている──つまり神の世界と人間の世界があると信じている人、これが二元主義者だ。人間の世界においては実際的にも客観的にも、主体──きみ自身──とほかのすべてである客体という事実があると信じている。この姿勢はニュートン物理学のモデルによく現れているね。人間の宇宙をつくっているモノ、それはほんの数百年前まではただ世界と呼ばれていたあらゆる現象だが、それはきみとは別に存在し、きみたちはそれを操作できると思っている。この「きみ」とは身体と身体を動かしていると思われている脳だ。事実、前にも触れたとおり、きみが自分だと思っている身体と脳は世界が生じさせたかに見える。だが事実はまったく逆なんだよ。
 当然ながらこの姿勢の段階では、神はきみの外側のどこかにいることになる。こっちにきみがいて、あっちに神がいて、両者はバラバラだ。ほんとうは現実である神が遠い幻想のように見える。ほんとうは幻想である世界がここにある現実に思える。理由はあとで言うが、きみの心は家から離れた放蕩息子のように引き裂かれているので、無意識のうちに分裂した心がもつ特徴を神に付与しようとする。そのために神と神のメッセージと思えるものが矛盾してしまう。
 このほとんどが無意識に行われる。だから自分の分裂した心のなかではなくて、外側の世界に実在するように見えるんだ。それで、神は赦しであると同時に怒りになる。神は気分次第で愛したり殺したりする、ってね。これは二元論の心の特徴にはぴったりだが、神の特徴だとはとても思えないよね。言うまでもなく、このために無数の奇妙なことが起こる。土地や財産を奪うために、ある正義や宗教をすべての人に押し付けるために、ほかの人を殺せと神が命じる、なんて考え方もその一つだ。この愚かな悲劇を、現代社会はすべて当然だと思っている。まったく狂気の沙汰なんだがね。
 神のもとに戻るための次の学びの姿勢は、半二元論と呼ばれる。ある種の真実の考え方を受け入れ始めているので、穏やかで優しい二元論と言ってもいいかもしれない。これもやっぱり、どの宗教を信じているかとは関係ない。この段階にある心が受け入れる考え方の一つが、神は愛であるというシンプルな概念だ。だがこのシンプルな概念をほんとうに信じると、とても難しい疑問が起こる。たとえば神が愛であるなら、同時に憎悪でもあり得るのか?神がほんとうに完全な愛なら、欠陥なんてあり得るのか?神が創造者なら、被造物に復讐することなんかあるのか?
 これらの疑問の答えはもちろんそんなはずはない、というものだ。それがはっきりすると、長いあいだ閉じられていた扉が少し開く。半二元論では隠されていた神への激しい恐怖の念が、少し減り始める。きみも言ったように、もう神があまり怖くなくなるわけだ。原始的なかたちの赦しが心に根を下ろす。それでも自分を肉体だと思い、神と世界は自分の外側にあると思っているが、神がきみの状況をつくり出したのではないと感じる。ものごとがめちゃくちゃになったとき、そこに必ずいるのは自分自身なんじゃないか?完全な愛なら善だけを生み出すはずだ、だからほかのすべてはべつのところから生まれているに違いない・・・・と考える。ところが、べつのところなんてないんだよ。

パーサ:次の姿勢が非二元論よ。学びの姿勢でも、スピリチュアルな見方でも、わたしたちが言うのは常に心の状態よ。心の姿勢であって、目に見える外側のことじゃないの。簡単な例から始めましょうか?森で木が倒れたとき誰もいなかったら倒れる音はするか、っていう古い謎々を覚えてる?

ゲイリー:覚えてるよ。答えは証明できないから、必ず議論になるんだ。

パーサ:で、あなたの答えは?議論はしないと約束するわ。

ゲイリー:聞いている人がいようがいまいが、木が倒れる音はすると思うな。

パーサ:その回答は、かたちのレベルでさえ、まったく間違い。木が倒れると音波が送り出される。音波は電波みたいなもので──どっちもエネルギー波だけど──受け取る相手が必要なのよ。この部屋にはたくさんの電波が飛び交っているけれど、受け取るレシーバーがないから何の音もしていないでしょう。人間や動物の耳はレシーバーよ。森の真ん中で木が倒れても、聞いている人が誰もいなければ音はしない。音は聞くものがあって初めて音になる。あなたが見たり触れたりするまでは、エネルギー波がモノとして現れないのと同じ。
 つまりタンゴを踊るには二人の人間が必要ってこと。何かがかかわりあうためには二元性が必要なの。だって二元性でなければ、かかわりあう相手がないでしょう。見るほうにそれと対応する姿がなければ鏡には何も映らない。二元性がなければ森のなかの木もない。量子物理学者の一部が気づいているとおり、二元性は神話なのよ。そして二元性が神話なら、木がないだけでなく、宇宙だってやっぱりないの。それを認識するあなたがいなければ、この宇宙はない。この宇宙がないなら、このあなたもない理屈になる。存在という幻影を生じるためには、一なるものを分割しなければならない。あなたがたがやっているのが、まさにそれ。すべては仕掛けトリックね。
 一なるもの、という考え方はべつに独創的じゃないわ。でも、それなら自分は何と一つなのか、と問いかける人はあまりいない。問いかけた人も、大部分は神という答えを出すのだけれど、そこで「この宇宙は聖なるものによっていまあるかたちで創られた」と想定してしまう。この想定は間違っているし、そう考えてしまうと、ブッダのように心を完成させた賢者でさえ、恒久的な意味で神に到達できなくなります。そう、二元性の波動をつくり出す心とは一つになれるでしょう。その心はすべての次元を超越した無という場にあっては、完全に時空とかたちのシステムの外にある。これが非二元性の論理的で妥当な帰結なのだけれど、それでもまだ神ではない。それどころか行き止まりの袋小路よ。あるいは始まりの終わりというほうがあたっているかな。仏教は世界で最も心理学的に洗練された宗教だけれど、それゆえに神という問題を扱えない。だから、あなたがたがブッダと呼ぶ身体のなかにブッダがあったとき、彼は神の問題を取り上げなかった。わたしたちが非二元論と純粋な非二元論を区別する理由もそこにあるの。ブッダが「わたしは悟った」と言ったのは、自分は幻影に参加しているのではなく、自分がすべての幻影をつくり出していると気づいた、という意味だったのよ。
 でも、そこからもう一歩進んで、すべての幻影をつくり出している心がそれ自身と完全に対立して神の側につかなければ。もちろんブッダは優れた段階に到達した人だからそこに気づいて、すぐにJと同じ悟りに進んだわ。でも、それは世界に知られていない生涯での出来事。Jのレベルの悟りに達した人々のことを世界がまったく知らないのはべつに珍しくはないし、世界的に有名な生涯で悟りに達したと思われている人たちがじつはそうではないことも多いんです。ほんとうに霊的な完成に近づいた人たちの多くは指導者になろうなんて思わないから。その一方で、ほんとうに霊的形而上的な完成に近づいた生涯にではなく、とても外向的な資質を示したときに有名になった人たちもいるし。

ゲイリー:それじゃ、Jはどんな風に神との一体化を経験したんだろう?

アーテン:それをこれから話そう。きみにこういう話をする理由の一つは、彼の言葉をわからせてあげたいからだ。彼が気づいたのは、宇宙が存在しないだけではなく、彼自身も純粋なスピリット以外のレベルでは存在しないことだった。だが、現実にはそんなことは誰も知りたがらないよ。だって、そうしたら個々の存在や個性を永久に放棄することになるから、みんな無意識のレベルで恐怖を感じるんだ。

出典:神の使者 P52~57

ゲイリー:すると非二元論というのは、「きみたちはこの世の者であるかのように生きている」という古い教えと同じってこと?そしてあんたがたは、真実の世界と幻想の世界があるように見えるけれど、じつは真実だけが真実であってそれ以外に真実はない、って言いたいのかな?

アーテン:そうそう、優秀な生徒だな、それでも人は幻想が真実からつくられていると誤解する。だから幻想を捨てようとせず、正統性をもち込もうとする。そんな誤解をしている限り、輪廻という生と死の循環を壊せない。無意識の心が神を避けようとするので、きみたちは神を無視するか、非二元論を二元論に発展させようとする。その顕著な例がヴェーダーンタという偉大なインド哲学だよ。
 ヴェーダーンタというのは非二元論の霊的な文書で、存在するのは真のブラフマンだけであとはすべて幻想──偽り、無、ゼロ──だと教えている。哲学者のシャンカラはヴェーダーンタを賢明にも「不二一元論」と解釈した。なるほど、と思うだろう?ところが、ほかの九十九・九パーセントの人たちはそうは考えなかった。ほかにもっと人気のある、だが間違った主流派のヴェーダーンタ解釈があるが、これらは非二元論の形而上学を壊して本来とは違ったものに変えてしまおうという試みだ。恣意的な非二元論を恣意的な二元論に変えようとしたマドゥヴァもその一人だが。
 ここににヒンズー教とJの教えの驚くべき共通点がある。Jは純粋な非二元論を教えたが、世界は二元論と解釈した。ヴェーダーンタは非二元論の教えだが、世界は二元論と解釈した。現在、きみたちの世界には保守的な多数派が支配する二大宗教があって、存在しない世界の心と精神を獲得しようと争っている──一つは金のうえにうちたてられた帝国のシンボルとなっている宗教、もう一つは同じく反動的ムスリムである隣人との核戦争も辞さない政府のシンボルとなっている宗教だ。
 地球上の大多数は古色蒼然たる宗教で満足かもしれないが、きみまでがそれでいいと思う必要はない。非二元論の姿勢は、きみが見ているものは真実ではないと教えている。真実でないものについて判断すれば、それに現実性リアリティを与えることになる。存在しないものをどう判断し、どう現実性リアリティを与えられるというのか?存在しないものを獲得したり、それをめぐって争ったりする必要が、あるいはほかの何かより聖なるもの、価値あるものと評価する必要がどこにあるのか?どうして地球の一画がほかより重要なのか?幻想にはない、あるはずもない力を与えるのでない限り、どうして幻想のなかで起こることが大事なのか?特定の状況を偶像視しない限り、どうしてその状況から起こる結果が重大なのか?どうしてチベットがほかの場所より重要なのか?
 きみたちがまだこんなことを聞かされたくないのはわかっているが、きみたちがこの世界でどんな行動を取るか取らないかはどうでもいい──ただし、行動にかかわるきみたちの見方や姿勢は重要だがね。もちろんきみたちが多重性の世界に存在するように見えているあいだは、現世的な関心事があるだろうし、現世のニーズを無視するつもりはない。精霊は愚かではないし、きみたちは「この地上にある」という経験をしている。だが、そうやって人と同じようなことをしながら一生を送り、なおかつそれをたった一人でしなくてもすむ方法がある。それがわかれば決して孤独にはならない。
 だから、現実的であってはいけないとか、自分の人生を大切にしてはいけないとは決して言わないよ。ただ、きみたちのほんとうのボスはこの世界にはいない、というだけだ。自分のことは自分でして、自分がボスだというふりをしたいのなら、それでもかまわない。自分がいちばんいいやり方をすればいい。自分を大切にしなさい。われわれが関心をもっているのは、きみたちの行動と見えるものではなくて心の姿勢なんだ。いずれきみたちは、自分が生きるためにすることはみんな、幻想のなかの自分を支えようとする幻想で、幻想そのものを支えるのではないことに気づくよ。

 いままでの話を聞いて、非二元論をとればすべての判断や信念に関する疑問に答えられそうだと感じたかもしれない。さらに主観と客観などというものはじつはなくて、一なるものがあるだけだと気づいただろう。まだきみにわかっていないのは、それが真の一なるものの模造品に過ぎないことだ。神から分離したかにみえる心と一つになることと、神そのものと一つになることの違いがわかっている者はほとんどいない。心は神に帰らなければならない。とはいえ、非二元論もいずれ通らなければならないステップだ。そこできみたちは何かをその他から分かつことはできないし、何かをきみ自身から分かつこともできないと知るんだからね。
 この考え方は量子物理学のモデルを見るとわかりやすい。ニュートン力学では客体が現実で、自分の外にある別の存在だと考える。だが量子物理学はそうではないことを示した。宇宙はきみたちが想定しているようなものではない。存在するように見えるすべては、じつは分離できない一つながりの思考だ。原子以下のレベルでは、対象を変化させずに観察すらできない。きみ自身の身体も含めて、すべてはきみの心のなかにある。一部の仏教が正しく教えているとおり、すべてを考えている心は一つの心で、この心は完璧に時空の幻想の外側にある。そして、ある例外をのぞいてどの哲学も教えていないし、ほとんど受け入れられない真実がある。この心そのものすらまた幻想だという真実だよ。
 一なるものしかないのなら、存在するように見えるそれ以外のものは、明らかにすべてでっちあげだ。さらに──ごく最近までどの教えもちゃんとした答えを出そうとしなかったが──そのでっちあげには十分に納得がいく理由があるに違いない。したがって世界やそのなかにあるすべてを批判する代わりに、そもそもそれをつくり上げることにどんな価値があったのか、と考えるほうが意味があるのではないか。いまは、その適切な答えは何かと自問することが大切なのではないかな。

パーサ:ここでJの姿勢に話が戻るの。彼の教えは純粋な非二元論、道の終わり、終着地なのよ。
 学ぶにあたっての主な四つの姿勢はどれも長い道のりで、ときにはピンポン球のように行きつ戻りつすることを忘れないでね。聖霊は道筋を修正してくれるし、正しい方向に引き戻してくれるでしょう。道を見失ったからといってがっかりしなくてもいいのよ。Jを含めて、この地上に生きた人で道を外れる誘惑に負けなかった者は誰もいない。間違いのない完璧な一生なんて神話は、自滅につながるだけ無用なものよ。必要なのは修正を受け入れる意志だけ。
 ジェット機が飛ぶとき、ナビやコンピュータがつねにコースを修正しているように、あなたが何をしているように見えても、どんな霊的認識のレベルにいるように見えても、聖霊はいつもあなたの道筋を修正してくれる。彼を無視することはできても、彼と離れ離れになることはあり得ないの。ジェット機はつねにコースからはずれかけて、でもつねに修正されて目的地に到達する。あなたもやがて目的地に着くでしょう。それはもう決まっている。たとえ邪魔をしようとしたってできません。問題は、あなたはどこまで苦しみを長引かせたいのか、ってこと。
 もう、純粋な非二元論に沿ってものを考えてもいいころね。いつもそう考えられるとは限らないでしょうけど、始めても損はないわ。まずJのように考え、Jのように聖霊の言葉に耳を傾けたどうかしら。いずれはこの純粋な非二元論を二つのレベルに分けなければならないけどね。

出典:神の使者 P58~62

アーテン:Jは批判的でも保守的でもない。さっき非二元論をざっと説明したから、Jがこの理屈に妥協するはずはないこともわかるよね。きみの心の外には何もないとしたら、何もないそれを批判すればそれに支配力を与えることになるし、批判しなければ支配力を奪い取ることになる。そうわかれば、苦しみは解決されるはずだ。だがJはそこで立ち止まりはしなかった。
 純粋な非二元論では完璧に神の権威を認め、神以外のものへの心理的な執着を放棄する。また、一部の人が「カエルの子はカエル」という原則を認める。つまり神から生じたものは神に似ているということだね。純粋な非二元論ではこの原則についても妥協しない。それどころか、神から生じたものはまさに神にそっくりなはずだと考える。神は完璧でないものを何ひとつ創造できないし、そうでなければ神は完璧ではない。もし神が完璧で永遠であれば、神の創造物もまた完璧で永遠だ。

ゲイリー:そうすると範囲がすごく限られるなあ。

アーテン:この世界に完璧で永遠なものが何もないことは明らかだから、Jはこの世界をありのままに──つまり無だと──見ることができた。しかし彼はまた、この世界が現れているのには理由があること、それは人々を神の真実と神の王国から遠ざける仕掛けだということも知っていた。

ゲイリー:どうして、僕たちを真実から遠ざけておかなきゃならないのかな?

アーテン:とりあえず、Jが神とのその他を完全に区別し、妥協しなかったことを理解しておいてもらいたい──その他のすべては、世界の解釈ではなくて聖霊の解釈を聞く機会を提供するという以外はまったく無意味なんだよ。概念や変化にかかわるものは本質的に不完全だ。
 プラトンも同じ考えだったが神に関しては充分に突き詰めなかった。Jは概念の先を見通し、いつどんなときにも完璧なスピリットの愛を選んだ。完璧なスピリットと変化する世界とを決定的に区別したから、聖霊の声がますますはっきり聞こえるようになり、おかげでますます赦しの実践というプロセスを展開できるようになった。真実の声は大きく強くなっていき、ついにJはたった一つの声だけを聞き、すべてを正しく見通すところに到達した。最終的にJはその声が現すものになった。──というか、そこに復帰した。天の王国と一体のスピリットであるということ、それが彼の真実であり、きみの真実なのだ。
 忘れてはいけない。概念と変化の宇宙に神がかかわっているとか、この世界をつくり出している心と神がかかわっていると、信じてはいけない。聖霊の声だけを聞く力を得るプロセスの邪魔になる。なぜか?理由の一つは無意識な罪悪感にあるのだが、まずはもう一つの理由を教えよう。王国の力と安らぎを得る前提条件として、きみの偽りの力とあてにならない王国を捨てなければならないからだよ。偽りの被造物を神の意志だと信じ込んでいたんじゃ、捨てられはしないだろう?それに自分の弱さを強さだと思い込んでいたら、その弱さを手放しはしないだろう? ほんとうの力を分かちもとうと思うなら、何かを生み出すのは自分ではなく神だけだと肝に銘じなさい。謙遜も一つの道だ──ただし、「自分は不完全な人間です」などというインチキな謙遜ではなく、神が自分の唯一のソースですと言い切る、ほんとうの謙遜だがね。そうすれば神の愛以外に何も必要ではないと気づくだろうし、何も必要としない人間はすべてにおいて信頼できるんだよ。
 だからJが「わたしは何もできない」とか「わたしと父は一つです」と言ったのは、自分には特別なところはまったくない、という意味だったのだ。事実、彼は特別とか個性とか自分が何かを生み出すなどということはいっさい捨て、真の力──神の力──を受け入れていた。
 J本人にとってはJという存在はなかったし、結果としてそのとおりになった。彼は純粋な霊としての現実リアリティしかなく、完全に幻想の外にいた。さらにこの現実リアリティは、完全に偽りの宇宙をつくり出している心の外にある。人々はその心を、一体となるべき真のわが家と誤解しているがね。Jは偽りの宇宙の創造は、真実とは何も関係ないと知っていた。彼のアイデンティティは神にあり、ほかのどこにもなかった。「理解を超えた神の平和」を追い求めることもない。求める平和はすでに彼のものだったから。求める必要さえなく、ただ思い出せばよかった。完璧な愛も追い求める必要はなかった。数々の賢明な選択を通じて、完璧な彼という現実リアリティと彼を隔てるすべての障害を取り除いたから。
 彼の愛は神の愛と同じで、個にこだわらず選択せず、すべてを包む完全な愛だ。彼はラビから娼婦まですべてを均しく扱った。彼は身体ではなかった。人間ではなかった。彼は針の目を通り、純粋な霊として神のもとでの居場所を取り戻した。これが純粋な非二元論で、聖霊とともに真のきみへと導いてくれる姿勢だ。きみとJは同じだよ。だがそれを体験するには多くの訓練と実践が必要だ。

出典:神の使者 P64~66

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